筆者である私は、生まれ育った飛騨高山から一度外に出てUターンしてきた。地元に帰りたいと思った理由はいくつかあるが、その中のひとつが「食べ物の美味しさ」だった。米も野菜も郷土料理も、飛騨には美味しいものがいっぱい。
そこで、同じように「飛騨ごはん」に心、そして胃袋を掴まれた移住者さんがいるのではないか?という思いから、聞いてみた。「あなたが胃袋つかまれた飛騨ごはんってなんですか?」
「昔から自然や植物が好きだった」と話すのは、田中由希子さん。園芸種のような派手さはなくとも、可憐な花や葉をつける山野草に魅せられて、自然案内人のノウハウを学ぶために名古屋市から高山へ移り住んだ。
現在はガイドとして、乗鞍・新穂高など北アルプスの裾野エリアや、時には活動範囲を広げ長野県側の上高地で案内をすることもあるという。
また、その知識を活かし自然素材を使ったハンドメイドのワークショップを開催するなど、気軽に草花と親しんでもらう活動も楽しんでいる。本物の押し花や落ち葉などを使い、自分だけのオリジナルグッズが作れる体験は家族連れや女性に人気だ。
自然素材の元祖ともいえる楮(こうぞ)に興味を持った田中さんは、紙漉きを見学することになった。和紙といえば同じ岐阜県の「美濃和紙」が有名だが、飛騨市河合地区にも「山中和紙(さんちゅうわし)」という紙漉きが伝わる。原料の楮を雪にさらして自然漂白するという、雪深い飛騨ならではの製法を今も守っている。
作業の合間、「ぼちぼち小昼(こびる)にせんかな?」と始まる小休憩では持ち寄った軽食を囲んで交流するのも楽しい時間。そこで出会ったのが地元のお母さんが作ってきてくれた郷土食「ねずし」だった。
ねずしとは、漢字で「寝鮨」と表記する通り、寝かせて作る郷土料理。酢飯に鱒・大根・にんじんなどを混ぜ込んだものに麹を合わせて発酵させる。家庭によっては鱒の代わりに鯖を使ったり、具材の切り方が違うなど、それぞれの味がある。
「飛騨の人は、寿司をまるごと発酵させてしまうのか。」
田中さんは衝撃を受けた。口の中が芳醇な麹の甘酸っぱさにつつまれるこの不思議な食べ物は、驚きとともに忘れられない味になった。
冬に食料が不足したことからか、飛騨には漬ける・干す・発酵させるなど、あらゆる方法の保存食文化が色濃く残る。
ねずしのシーズンも冬。寒くなるとスーパーや総菜店に並ぶほど地元ではポピュラーで、今では見かけるとつい買ってしまうほど田中さんの好物に仲間入りした。
飛騨地方では、それぞれの好みのねずし話で盛り上がることも多く、オススメのお店や家庭での作り方の違いなど、いろいろな情報をもらいながら食べ比べていくことを楽しみにしている。発酵具合は気温や材料によって変わるため、同じ人が作ってもその都度少しずつ味が違うのもまた愛嬌。
地元では年末に仕込み始め、年明けまで寝かせてお正月に食べるという、ちょっと特別感のある料理。
飛騨びとが大事にしてきたとっておきの「ごっつぉお(ごちそう)」は、外から移住してきた田中さんの胃袋もしっかりとつかみ、日々を潤すささやかな楽しみとなっている。
飛騨に生まれた私にとっては、祖母の大好物だったねずしは、「大人の味」という子ども時代に抱いたイメージが強く、積極的には食べてこなかった。田中さんの話を聞いているうちに食べたくなり、この冬初めて自分で仕込んでみることにした。
「うん、これはごっつぉおやな…」
麹の香りがちょっぴり苦手だった幼い頃と違い、箸がすすむこと。移住者さんに地元の魅力を再発見させてもらうインタビューとなった。