<Vol.1より>
高山の町なかで理髪店を営む小林修二さんは、町はずれの山あいに所有する古民家を自力で改修している。筋金入りのコレクターでもある修二さんは、昭和の香り漂うレトロな品々から骨董の類まであらゆるコレクションを古民家に収蔵しており、そこは彼にとっての秘密基地となっていた。
2016年秋。修二さんと出逢った古民家好きの筆者は、意気投合した勢いで改修の手伝いをすることになったのだった。
その古民家を小林修二さんが知り合いから買ったのは、40年前。
「囲炉裏でコーヒーを飲みたかった」
という漠然とした夢を描いてのことだった。
自身の店の近くでも、出先でも、あちらこちらに行きつけの喫茶店やカフェがある修二さんらしい。
ほどなく、「ともかく住めれば」と、工務店に改修を一任する。
それは「応急処置」に近いものだったらしい。
電気・ガス・水道を通し、軒先に迫った裏山との間に暗渠を設けるところまでは工務店に依頼。自身もご家族や知り合いと一緒に、1階天井と2階床板の間に断熱材を入れるなど手を加えた。まさに当面住める程度に。
今思えば、それは本当の意味での改修ではなかったと言う修二さん。
永らく風雪に耐えた家は、見えない所で劣化が進んでいる場合が多い。多くの人がそうであるように、若かった修二さんが、家が発するかすかな訴えに目を向けなかったのも不思議ではない。
それでも、待望の大人の遊び場を得たことで、週に2、3日は泊まりに行っていた修二さん。「秘密基地」が自身の“オモチャ”の置き場にもなっていくのは必然だった。
コレクション熱が半端でない修二さんのこと。
「俺は何にでも情熱的」
と本人が言う通り、その情熱は想像を絶していて、驚異的な数の秘蔵品に果ては家主が追い出されるまでになってしまうのだ。
膨大なお宝に押し出されるようにいつしか泊まることもなくなり、大きな古民家は「倉庫」と化した。
多事に紛れて、気になりながらも疎遠になるのはよくあること。
またたく間に10年が経ってしまい、たまに立ち寄る程度になっていた隠れ家で、ある日、修二さんは異変に気づく。
1階の部屋の一角で、床が下がっていた。
(土台がやられているな)
このままではいけないとわかっていながら、フワフワする床をそのままに季節はさらにめぐる。
そしてついに、4年前の冬。
危ない危ないと思っていたその床を、ついに修二さん自ら踏み抜いてしまうのだ。
幸い怪我はなかったが、それでスイッチが入った。
その冬の雪解けを待って、手直しに乗り出した修二さんだが、土台を直すとなればどうしたって「本職」の助けが必要だ。
生来の器用さと熱意で細々と修繕してきたとはいえ、さすがに大きな家を根本から直せるほどの知識も経験もない。なにより、前回のような「とりあえず住めれば」程度の手直しではだめ。
そう考えていたところへ、出逢うべく人と出逢う。
知人のご主人である大工の大澤修さんは、大の古民家好き。
意識のアンテナを立て、そして発信していれば、コンパクトな地域に濃い人材が密集している社会では、芋づる式にありがたい出逢いが数多くある。同じ意識を持った人が引き合うようにつながることは、飛騨では珍しいことではない。
大澤さんの古民家愛は、もったいない精神にあふれている。
ボロボロの「むしろ」を片づけながら、
「これは米ぬか入れた布袋で拭くと、ケバが気にならなくなるよ。囲炉裏端に置いたら、いい感じやぞ」
お世辞にもキレイとは言えないむしろを前に嬉しそうな大澤さんがいるだけで、ガラクタが光を放ってくる。
「この板は使えるぞ。使えるもんは使わんとな。こんないい板、今はもう手に入らん」
古いものへの敬意や再利用の大切さを、押しつけるでもなくポツポツと語りつつ、粛々と作業する。
「家」という身よりもはるかに大きいものを相手に、見るからに怖そうな道具類を扱い、危険極まりない作業をしながら、人懐こい笑顔で終始おだやかな空気を醸している大澤さん。
それは修二さんも同様だ。
筆者は改修を手伝っているとはいえ、大工仕事など全くの初心者。無知と不注意にいい加減さまで手伝っていろいろなコトをしでかしている。綺麗に敷きつめたばかりの発砲断熱材を踏み抜く。マスキングテープの貼り方が甘くて、もしくは貼るのを忘れて、余分な所にまで真っ黒い塗装を施す……。
「やっちゃった! だから気をつけろって言ったでしょっ」
大澤さんの声が笑いを含んでいる。
修二さんは平謝りする筆者の前で、
「なんもなんも」
を軽やかにくり返し、新たに発生した修復作業にせっせといそしみ、または
「そうや、ここも塗ってまえ」
と計画変更する。
しょうもないシロウトへ向けたお二人の許容の眼差しに、粗忽でガサツな“にわか助手”がどれだけ救われたかわからない。
山小屋の改修をメインに仕事している大澤さんは、春の雪解けから秋の初雪までを山で過ごす。
その時期をはずした12月から5月半ばまでの主に冬期を、週に2、3回のペースで修二邸に通っているのだった。
電気の通っていない冷え冷えした古民家で、石油ストーブの暖を頼りにともに作業することで、どれほどの連帯感が生まれるか。大した言葉を交わさずとも、修二さんが大澤さんに全幅の信頼を寄せていることがわかる。
飛騨の厳しい冬は、人の絆も養うようだ。
「家が怒ってる」と修二さんは言う。
数十年前、“中途半端な”改修を施したことに対してだ。
今のところは、まだ「だっしゃもない!※2」と言ってるな、と修二さんは自嘲気味につぶやく。
「しっかり直せたら、家からありがとうと言ってもらえる気がする」
そうしたら、自分も家からパワーをもらえるはずだ、と。
「家」というものを、修二さんは、意思を持つもの、ひとつの命と見ているのだ。
人が作ったものだからこそ、こめられた知恵や愛が多く深いほど、その意思は強くなり、存在感の大きさとして、ボロ家の中にも美しさを見出させ、人を惹きつけ、関わらせ、住みたくさせてゆくのかもしれない。
土台や柱といった、家の見えない「根本」を健全にする。
つまりは、建てられた当初の元気だった状態に戻すということ。
それが古民家を生き返らせることになるのだ、と修二さんは語る。
今回の改修は、傷んだ箇所の本格修繕とともに、修二さんが考える昔ながらの古民家然とした内装を施す目的もある。
あるがままの古民家の良さを大澤さんから聞くうち、修二さんなりに「作り上げたい家」がハッキリしてきたのだそうだ。「“古民家風”ではない、建った当時の姿が見える家にしたいんや」
それが、修二さんが40年かけてたどり着いた「古民家再生」だった。
– つづく –
※1 「じれったい」「腹が立つ」という広範囲な意味をもつ飛騨弁
※2 「だらしがない」という意味の飛騨弁