飛騨古川の塾と言えば、澤学習塾に歴史がある。この塾の経営者である澤さんは、自身も東京の大学に進学し、広告代理店で働いていたという経歴を持つ。今は塾経営だけでなく、飛騨市議会議員も務める澤さんだが、教え子のひとりに古里さんがいた。子どものころから成長を見守ってきた澤さんに、古里さんがUターンしてくるまでの話を聞いた。(※古里さんについての記事はこちら)
「僕は28歳のころ塾経営を始めて、今年でちょうど28年です。いまは塾経営に加えて、飛騨市議会議員として活動しています」
澤さんはもともと飛騨の出身だが、大学進学で上京し、その後東京で広告代理店に勤めていた。父親が倒れたのをきっかけに飛騨に戻ってきたが、しばらくして塾経営を始めたという。古里さんと出会ったのもその頃だ。
「圭史が塾に来たのは、小学校5年生のころ。塾を開講して間もないころなんですが、当時の彼はやんちゃで、じっと座っているような子ではなかったですね(笑)。圭史の年代の子たちは、ちょっと悪さするような子も多かったんですが、その中で圭史は怒られないようにうまく立ち振る舞っている。そういう、やんちゃなんだけど賢い子でした」
現在の古里さんからは想像がつかないが、澤さんは楽しそうに当時を振り返る。子どもの数も今と比べると多く、生徒は300人ほどいたそうだ。その中で印象に残っているというのだから、相当強烈だったのだろう。
「彼には小学校・中学校と教えて、高校生のときも、よくうちに遊びに来てましたね。その後、彼が東京の大学に行ってからは、夏期・冬期講習の時期に講師として来てもらったり、付き合いが切れることはなかったです。その頃から、一緒に飲みに行ったり人生相談があったり、大人同士の付き合いになっていきました」
かつての先生と生徒でも、成長すれば同じ大人として語り合うことができる。澤さんを恩師と呼ぶ古里さんは、東京で働いているときに「いずれは飛騨に帰ってきたい」と澤さんに相談したこともある。内心嬉しかったが、当時の古里さんの仕事が公認会計士ということもあり、飛騨では実力が発揮できるか心配もあったという。
「小さなころから知っていることもあって、帰ってきてくれたら単純に嬉しいという感情もあったのですが、まだ帰ってくるタイミングじゃないぞ、という気持ちの方が強かったですね。彼の実家は商売をやっているし、狭い地域特有のしがらみもある。だから、こちらに帰ってきて金融機関に入る話を聞いたときは、せっかく帰ってくるなら枠にはまらない働きかたをしてほしいと思いました」
澤さんの願いの通り、古里さんはUターン後に働き始めた飛騨信用組合で、イノベーティブな施策を次々と打ち出している。また、お互いに年も重ねたことで、地域内での付き合いも増えてきたそうだ。
「昔の生徒たちと集まることも、最近になって増えてきたのですが、そこでは、自分たちの仕事に関係なく地域に何かできないかという話もできるようになりました。かつての生徒たちがそうして集ってくれるようになって、良い流れが生まれていると思います。自分の立ち位置としては、そういったところで彼らに何か機会を提供したり、応援する側に立ちたいと思っています」
「それぞれに活躍する場があるんじゃないでしょうか。Uターンしてくれれば人口は増えるけれど、それが最重要だとは思いません。自分が活躍する場をどこに定めるかという点で、国内でも海外でもいいと思っています。ただ、いろんなきっかけがあって、それがたまたま飛騨地域に起因するものであれば帰ってきてくれれば、という気持ちです」
たくさんの教え子を輩出してきたからこそ、飛騨に必ず戻ってほしいとは言わない。特に、ずっと飛騨に留まるよりも、若いうちに広い世界を見て経験を積んでほしいと話す。
「この地域の若者に対しては、一度は外に出てみることをお勧めします。自分の見聞を広げて、そこから地域を見つめ直してほしい。外の世界を知ることで、あたりまえのことがあたりまえでなかったり、ありがたいと感じる部分も見えるのではないでしょうか。」
澤さんの場合は、広域で飛騨地域を見ている。古里さんのように、古川町を出て高山市に戻っても、それは地域全体で見れば喜ばしいことだ。地域の若者が戻って来たいというときに、親身に彼らの相談に乗り、必要に応じてサポートするということは、帰郷する側からすればありがたい存在だろう。親や兄弟ではなく、いい塩梅の付き合いができる大人がいるだけで、前向きなUターンになるはずである。