ここ5年に起きてる白川郷のあれこれ|移住者が始めた村外れの小さな蕎麦屋

ある蕎麦屋が白川村で開店1周年を迎えた。

白川村は人口1600人の小さな村だ。昔ながらの地縁が根付き、住民が遠い親戚同士というのがごく一般的で、昔ながらの濃密なコミュニティが残った地域である。

そう聞くと、ヨソモノが入りにくい地域とイメージしてしまうかもしれないが、実は白川村は人口規模に見合った一定数の移住者が絶えず出入りしている。白川村はいわゆる、日本の閉鎖的な田舎という一般的なイメージではなく意外に寛容的な田舎として分類されるのかもしれない。

蕎麦屋を始めた菅原幸一さんはそんな移住者の中の一人である。

世界遺産集落から車で15分。村を縦断する国道を南下すると、平瀬温泉の大きな看板が姿を現す。白川村の南部地域では最も大きい平瀬集落の入口だ。集落内を進み、中心部にある診療所や保育園が現れると程なく、手打ち蕎麦「妙幸」の文字が目に飛び込んでくる。看板の文字はお世辞にも達筆とは言えないけれど、手作り感のある風合いはどこか懐かしさを感じさせてくれる。

平瀬集落のメインストリートを走ると見えてくる妙幸の手作り看板

 

導かれるように白川村へ通った900日

妙幸ができた建物はもともと空き家だった。

手打ち蕎麦「妙幸」の玄関

埼玉県在住だった菅原さんは2年半、日数にすると約900日の歳月をかけて、お店となる空き家を探すため、白川村を何度も訪れた。新幹線とバスを使い、毎回8時間以上かけ、述べ10回以上行ったり来たりを繰り返したのである。

 

カラッと気持ちの良い夏も、一面銀世界が広がる冬も菅原さんは白川村へ通い続けた。

 

実は菅原さんは幼少期を白川村で過ごした過去を持つ。1953年生まれの64歳。3人の子供たちを社会に送り出し、奥さんと二人で埼玉県に建てた家で暮らしながら、長年勤めた金属加工の仕事を定年まで勤めあげた。派手さはなくとも堅実に自らの役割を果たした人生だった。

 

そんな菅原さんの転機は村で開かれた同窓会だったと言う。菅原さんが47歳の頃、同級生が村を離れて久しい菅原さんを同窓会に誘ってくれて、久しぶりに白川村に足を踏み入れたのだ。この時、菅原さんの心を駆け巡ったのは意外にも1歳から10歳までの記憶の曖昧な時期に過ごした白川村への郷愁だった。

 

同窓会以後、変わらず定年まで勤め上げた菅原さんだったが、白川村への想いは消えるどころか、時間が経つほど色濃くなっていった。もちろん、すぐに白川村への移住ということを考えた訳ではない。

 

定年して、まず夢中になったのは蕎麦だった。蕎麦の師匠に弟子入りし、お店の手伝いを経て1年間びっちりと修行したのである。小さい頃から物をいじることが好きだった菅原さんは蕎麦の奥深さにすぐに魅了された。

堅実な人生であったものの、本当に自分のやりたいことをしてきていない人生だったいう思いの根っこが菅原さんの心のどこかにあったから、この先、好きな蕎麦を打って暮らそうと考えるのはごく自然の流れだったのかもしれない。あとは一体どこで蕎麦屋を始めるかだけだった。

 

全く知らない場所ではない。同窓会で白川村を訪れたことが、今となってはずっと支えになっている。

「自分なりに白川村に(幼少期に住んでいたという)心のよりどころがあったので、諦めなかったのでは」

なぜ、そんな長い期間、白川村に通えたのかと聞いた際、菅原さんは照れ臭そうにそう答えた。空き家はタイミングが合えば、すぐに見つかるし、全く無い時にいくら頑張っても何ともならない。時間はかかったが、運良くイメージに近い空き家が見つかったのは菅原さんの白川村に対する強い想いが呼び寄せたのかもしれない。

 

もう一つ、900日の歳月が菅原さんにもたらした恩恵がある。それは通った時間に比例して増えていく、地域内の知り合いだった。菅原さんは村に来るたびに地域を知る努力を怠らなかった。その時々の空き家は全て見学してきたし、地域の住民とコミュニケーションも取ったし、村で開催される空き家の改修ワークショップにも顔を出してきた。そうやって、地域に飛び込んだ結果、いつしか移住をしていないにも関わらず住民の知り合いも沢山出来ていたことも、追い風だった。

 

空き家改修ワークショップにて床下に断熱材を取り付けている菅原さん

 

目指すは地域の食堂

移住者の出入りは常々あるが、菅原さんのようにリスクをとって自分で何かを生み出せる人は限られている。

村の空き家を購入することも、改修して店舗と設備を揃えることは決して容易なことではない。さらには定職がある奥さんをおいて、先に単身で白川村へ移住することも。

 

もちろん、それだけではない。特に大変だったのはお店にするための必要な改修の予算だった。地元の金融機関の融資を利用したが、予算の関係上、営業に必要な部分のみを優先して改修することで精一杯であった。ただし、1周年を迎えた今、振り返ってみると、新たに家を建てるよりは金額と工事期間を随分抑えられたし、雪囲いの部材や古道具などを利用できたので当時の判断は決して間違ってなかったと答えてくれた。

店内の様子

何とかお店を始めてからも、悩み事や不安は尽きることはない。

「近所の人達に気に入ってもらえて、お店を続けられるのかという不安は最初から常にありましたね」

他の田舎と同様に空き家が取り壊され、高齢化が進む地域にやって来て、蕎麦屋を始めることに果たして不安はなかったのかと聞いた時の答えだ。

それでも、妙幸を地域の食堂にしたいという夢は全て乗り越える原動力となった。夢を叶えるために菅原さんは蕎麦漬けの毎日を過ごす。4時に起床し、23時に就寝するまでの間、昼と夜の営業と仕込み・片付けの時間を除くと菅原さんの自由な時間は概ね2、3時間程度しか残らない。火曜日の定休日以外は基本一人でお店を切り盛りしている。そして、定休日でさえ、村外に出て仕入れにひた走る。

打ち場で蕎麦の仕込みを行う菅原さん。毎朝8時頃から打ち始めるのが日課

1年続けてきて、当初の不安は少しずつ自信に変わってきたと言う。

「まぁ、何とかなるもんですね。ただ、もうちょっと利益が出るかと思ってたので正直、厳しいですけど」

小さな蕎麦屋が生きた証

菅原さんは常ににこやかな顔をしている。人当たりがよく、村の人や来たお客さんとも会話を弾ませる菅原さんの印象を聞かれると誰もが真っ先にその人懐っこさを挙げるのではないか。

 

決してそれ自体は間違いではないが、インタビューを通して見えてきたのはむしろ、揺るぎない芯の強さと覚悟だった。

 

「町の暮らしに満足していなかったのでしょう。生きている証というか実感みたいなものが欲しかったのかもしれない」

続けて、「村外れの小さな蕎麦屋をやれている自分に満足しています」

毎日、蕎麦を打ちながら、毎日蕎麦を食して、週に1回ある休みも仕入れに走ることは決して義務では続かない。他人が大変だなと思ったとしても、当の本人はケロッとしてる。自分のやりたいことが叶って、毎日を丁寧に生きてる喜びに満ち溢れているに違いない。

お店の顔と言えるせいろ蕎麦

最後に目指すお店の形を聞いた際の答えはこうだった。

「将来的には自ら蕎麦粉をひきたいとも思ってる。また、年齢的に自らが前を走ることは難しいけど、地域の核になる世代や地域のために取り組む人達に協力して盛り上げるお手伝いをしていきたい」

 

村外れの小さな蕎麦屋の店主はずっと思い焦がれていた白川村での生活をようやく手に入れたばかり。蕎麦を打てる日々に感謝しつつ、蕎麦打ちとしての試行錯誤の毎日をしかと噛み締めている。

柴原 孝治(2017年度ライター)
柴原 孝治(2017年度ライター)

大阪生まれ、大阪育ち。東京の会社で9年勤め、その後家族で白川村へ移住。築100年の空き家をリノベーションし、カフェを開く。夢は自分で作ったワインをカフェで提供すること。白川郷ヒト大学の学長として半径5メートルを幸せにすることを日々の目標にしている。

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