飛騨高山。国内外の観光客でにぎわう「古い町並」から徒歩5分の場所で「畳屋」を営む二代目の桑憲八郎さんと一枝さん夫婦。この地で「畳屋」を始めたのは、今から80年程前。城下町の飛騨高山は日本家屋が軒を連ね、神社仏閣が多い土地柄。そのため最盛期は「畳屋」が23軒あった。しかし時代と共に畳を使う家が減り、後継者である息子さんも飛騨の地を離れ、家業の「畳屋」は憲八郎さんの代で終わりを遂げるという。
ただ不思議なことに、2人からはその「寂しさ」は感じられない。年を重ねるごとに仲むつまじく、この町を愛し、飛騨の暮らしを楽しみ、1つ1つの時間を大切に過ごしている。「おかげさま」と語る2人に話しを聞いた。
「嫁に来るときは、本当に嫌で泣きながら嫁入りをしたんやよ」
と笑う一枝さん。当時の結婚は本人たち同士ではなく「家と家」の結婚だった。結婚の話をもちかけられて、お互いの事もほとんど知らないなか、わずか3か月で結婚が決まった。嫁に行くことが嫌で、嫁入り当日まで泣いていたという。
「なんやろな(どうしてかな)。これが【ご縁】ってやつなんやろうな」
涙した結婚も、いつの間にか桑家の嫁として畳屋の手伝いにも入り、家業を支えた。今のように大きなトラックもなく、リヤカーで畳の回収に回り、修繕が終わるとまた夫婦でリヤカーをおして納品をしていたという。飛騨高山には春と秋に大祭があり、家々にお客様がくる風習がある。そのため、祭前にはどの家庭も畳の貼り換えをしたので大祭前は大忙しだったという。
一枝さんは大好きだった「着物の着付け」を学びたかった。
しかし、周囲の「畳屋の嫁のくせに」という偏見の目もあり諦めかけたころ「やりたいことは我慢してはだめや」と憲八郎さんが送り出してくれ、着付け教室に通うことができた。家事と3人の息子の育児、さらには家業をこなし、その傍らで猛勉強をし、講師の資格を取得。その後23年もの間、とぎれることなく一枝さんのもとには生徒が通っている。また高山祭の際には、数十人の男性に羽織袴を着付けるという大仕事を請け負っている。
「お父さんに、着付けに通わせてくれたことだけは感謝しとるんやよ」 と笑う一枝さん。
飛騨ならではの「畳屋」について憲八郎さんは言う。
「本当は畳屋の後を継ぐのが嫌やった。同窓会に行けば、みんな高校にも進学していて、中学卒業後に畳屋に入った俺とは全然違って、輝いとった。“職人”なんて肩書があっても、ただただむなしいだけやった。
ただ飛騨の畳屋は、人様の家の中まで入って、その家とそこに暮らす人と接する仕事。飛騨に暮らす人と文化のおかげで畳屋が成り立つ。畳屋は人と人とのつながりが一番の財産ってことに気づかせてくれたんや」
一枝さんも言う。
「こんなおばあちゃんでも、“先生”って会いに来てくれる若い子がおるんやよ。「着物」を通じて人生を楽しんどるんやさな。この町やでこそ着物を気取らず着られる文化があって、それが町になじんで、つながって。ありがたいことやな」
この町だったからこそ。
憲八郎さんにとっては、移り住んだわけでもなく、生まれ育った町。
ただ、そこに息づく文化が家業を支え、人とのつながりをもたらしてくれた。時におせっかいなことも、面倒なこともあるがそれもまた財産。飛騨で暮らす人と文化があってこそ。そう2人は教えてくれる。
・毎朝お父さんが入れてくれる珈琲の香りで目覚めること(一枝さん)
・自分たちの畑で育てた白菜・かぶら・大根の漬物が今年もおいしくできたこと。今年は大根のビール漬けにチャレンジ。
・収穫した大根の寒干しを昨日干しだしたところ。出来上がりが楽しみ。今年は温かいのでどうかな。
・年寄でも商売をしているので、商工会で日帰り温泉の割引券がもらえること。次はお父さんとどこの温泉に行こうかな。
・正月に息子や孫が帰ってくること。今年はどれだけビールを買えばいいのやら。
・春になったら姫竹を採りに友達と山にいけること。去年は収穫した姫竹を缶詰にしました。しかも30缶。
飛騨は四季がはっきりして、寒暖の差がはげしい土地柄。
だからこそ、四季折々の祭や行事があり、それが「文化」として受け継がれている。更にそれを通じて、自分たちが暮らす地域の人たちと一緒に四季の訪れを五感で感じることができ、自然が生み出してくれたこの地の実りを、この地で食すことができる。
「人」と「町」と「文化」が与えてくれた感謝の言葉「おかげさま」。
この町に暮らすことの魅力は、年を重ねるごとにその「ありがたみ」を実感し、それが町の「誇り」として形成され続けてきたこと。そして、これもまた継承されていくこと。
桑さん夫婦に、そう教えてもらった気がする。