2016年、12月、岐阜県白川村。
豆腐屋の朝は早い。
辺りがまだ寝静まっている午前2時、豆腐作りは始まる。
家が3軒しかない保木脇(ほきわき)集落にある工房から煌々とした明かりが漏れていた。
中をのぞくと店主の大野誠信さんはもう一名の従業員とともに豆腐作りに没頭していた。
豆腐作りは水に漬け込みふやけた大豆を細かくすりつぶし、蒸気で煮込んだ後、豆乳とおからに分離する。そして、取り出した豆乳にニガリを加えて、型に入れプレス機にかけ水分を抜く。その後冷却し、最後に包装する。気を使うのは、ニガリを加えて混ぜる工程で、季節や気温によって固まり方が変わってしまう繊細な作業だと言う。
午前2時から始まった作業は大野さんと職人さんで休むことなく進んでいく。全工程を4回繰り返すまで終わらない。作り終える頃には時計の針は7時を指し、休む間もなく配達に出かける。自ら車を運転し、村内を2時間かけて回る。雨が降ろうが雪が降ろうが関係ない。
ようやく、一息つけるのは配達を終えた午前9時過ぎのこと。店番のアルバイトがいない日はそのまま店番に入るのだから驚きを隠せない。現在69歳と思えない働きぶりである。
深山豆富店の一押しは定番の“石豆富”
お店で販売している「石」「花」「雪」「こも」と名付けられた定番の豆富の中でも“石豆富”は外せない。それには実はこんな由来がある。
石豆腐はもともと加賀地方(石川県)の白山麗一円で昔から食べられており、「堅豆腐」と呼んでいる地域もある。縄で縛っても崩れないと言われるほどの硬さの石豆腐は普通の豆腐に比べ、保存が効き、持ち運びがしやすいことから、流通が不便な豪雪地帯や山岳地域で重宝されたという説もある。
同じく土地の一部に白山を含む白川村においても豆腐といえば石豆腐であり、大野さんの幼少の記憶にあるのも、祖母が石臼を使って作ってくれる石豆腐の硬さだった。しかし、昔は今のように機械がないことから、非常に手間のかかる豆腐は行事以外ではなかなか食べることができない贅沢品であった。そのことを証明するように白川村の歴史が書かれた白川村史にも“白川村の多くの人が、一番の「御馳走」として豆腐を挙げる”と記載されている。
しかし、石豆腐は地元の食文化を代表する食材であったにもかかわらず、当時、村外の観光客向けに販売している場所は一つもなかった。実は、もともと大野さんは豆腐屋ではなかったのだ。
大野さんは14年前まで、村を代表する建設会社の社長だった。トラックや重機を操り、工事現場の指揮をとるなど、今の姿からはとても想像つかないキャリアを歩んでいたが、特産品作りで地域活性ができるのではという思いが生まれ、昔からこの村で御馳走とされた石豆腐を村外の観光客向けに作ろうと決心したのだった。
猪年生まれの大野さんは自他ともに認める突進型。一度、腹を決めたら、もう何も大野さんの耳には届かなかった。
「何で豆腐を選んでしまったのか。大変な目に合っているよ」
大野さんに「なぜ、豆腐だったのか?」と質問をしたところ、ニンマリとして茶化すようにこぼした。
「早く楽になりたい。歳で体がきついから後継者を見つけてお店を全て任せたい」という言葉とは裏腹に、大野さんはずっと休みを取ってない。ひょんなことから始めた豆腐作りも早14年。大野さんは「温度や季節によって、毎回作る度に品質が変わる。それぐらい豆腐は難しい。いまだに上手くできない」と謙遜するが、村内の食事処や民宿でも深山豆富店の石豆富をつかった豆腐ステーキや豆乳とおからを使ったマフィンなどが提供されていて人気だ。
白川村の人々にとって御馳走であった石豆腐はいまや大野さんが名付けた“石豆富”という名前の通り、地元の食文化を“腐らせる”のでは無く、より豊かに“富む”食材へと変貌を遂げつつある。
「商売には向いてない」と本人が言うとおり、確かに大野さんは商売人というよりは職人、いやむしろアスリートのようである。大野さんは豆腐を肴に晩酌するのに何よりも幸せを感じるという。四六時中、豆腐と向き合っていて嫌にならないのだろうか。
昼からは豆腐の加熱処理や商品の袋詰め、味付けなどの作業に取り掛かる。閉店は17時、時間になるとサッと片付け、店を閉める。家とお店が目と鼻の先ということもあり30分後には自身で作った豆腐に焼酎を合わせた定番の晩酌を楽しむ。自身が考案したニンニクや唐辛子とともに豆腐を煮込むことが多いのだそう。そして、翌朝の豆腐作りに備えて、19時には布団に入る。傍目から見て、なんとも慌ただしい一日だろうか、やはり69歳と思えない。
アスリートのような豆腐屋は納得の豆腐が出来るその日まで、先祖と両親への感謝を胸にただひたすら突進し続ける。大野さんには腐っている暇はないのかもしれない。
(有)帰雲商事 深山豆富店 |
---|
|