飛騨古川の町には、築100年の古民家を改装したカフェ、「壱之町珈琲店」があります。このちいさなカフェは、今からちょうど18年前にオープンしました。壱之町珈琲店には毎日たくさんの人が訪れます。0歳の赤ちゃんから90歳を超えたおばあちゃんまで。
今回は、壱之町珈琲店に訪れるお客さんのうちの一人、白石達史さんにお話を伺いました。白石さんは、飛騨古川でSATOYAMA EXPERIENCEという外国人旅行者向けのツアーを行う株式会社美ら地球でマネージャーを務めており、このサービス立ち上げに参画する形で、2010年5月に飛騨古川に移住しました。
白石さんにとって壱之町珈琲店は、「あまりにも日常の中にありすぎて、特別な場所というより自宅の延長にあるような場所」なのだそうです。
「 ”サードプレイス” ではなくて、もっと自宅の延長線上にあるような感じ。くつろぐこともあるし、仕事をすることもあるし、知っている人がふらっとやってくることもある。純子さんは、そんな人同士をさりげなくつなげてくれたりもするし、仕事をしていれば放っておいてくれる」
特に飛騨に友人たちが訪れたときは必ず連れてくる場所だと言います。
「この町にこんな素敵な空気感を持った場所があるんだ」ということをみんなに知ってほしくて。18年前にオープンしたとは思えないようなモダンな空間。そして、地元の人もいれば観光客もいるし、海外の人もいるし、年齢層も赤ちゃんからおじいさんまでが毎日やってくる。そしてそんな人たち同士でいつも会話が始まる場所。ここで知り合った人と、そのまま仲のよい友達になってということもよくある。そう言った意味でソーシャルメディアが出るはるか前からソーシャルメディア的なことをリアルでやっている場所だと思う。それは一番は純子さんの適度な距離感がそうさせるのかな。お客さん同士、気が合いそうだったらさりげなくつなげてくれる。でも紹介するだけでさっと身を引くので、出会うきっかけだけをもらってあとは本人たちが仲良く話すようになるんだよね」
このお店は白石さんにどんな影響を与えたのでしょうか。
「年齢に関わらず、小さい子からおじいさんまでたくさんの友達ができたかな。このお店でたくさんの人に知り合った。特に自分にとっては、オーナーの森かっちゃんとの出会いがとっても大きいかな。飛騨で最初に出会った面白い生き方をしている人が森かっちゃんだった」
「森かっちゃん」とは、森本勝幸さん。店主の純子さんの旦那さんで、壱之町珈琲店のオーナーです。大人もこどももみんなから愛される勝幸さんはみんなから「森かっちゃん」と呼ばれ、親しまれています。
森かっちゃんに出会って、白石さんは飛騨でどんな風に生きていくか、暮らしのイメージが湧いたといいます。移住して間もなかった頃、田舎暮らしをどのようにしていくか、白石さんは漠然としたイメージしかわかなったそうです。田舎に移住すると言っても、暮らしの選択肢は数多くあります。ログハウスに住むのか、古民家に住むのか、アパートを借りて住むのか。白石さんは森かっちゃんに出会い、壱之町珈琲店ができた背景を聞いて、古民家をリノベーションして暮らすことを決めたのだそうです。
「この歴史ある町で、『もう価値がないから』と壊されそうになっている古い家を受け継ごうと思った。どんなぼろぼろの家でも、それを自分で直して価値を作り直そうと思ったんだよね」
実は、壱之町珈琲店にもそんな歴史がありました。壱之町珈琲店は築100年以上の町屋ですが、その歴史ある建物も時代の流れとともに使われなくなっていたそうです。19年前、森かっちゃんは「歴史あるこの町並みを守りたい」と思い、当時全く使われていなかった町屋を作り変え、お店にすることにしたのだそうです。
白石さんは、壱之町珈琲店のストーリーを聞いて「自分がやりたかったのはこれだ」と思ったそうです。古いものが受けつがれて、かっこいい場があって、そこに多様な人が集まる。白石さんが求めていたそういった価値が、もうすでにこのお店で完成されていたと言います。
「変わらないセンスの良さってかっこいいことだなと思う。しかも、町のリノベーションや空き家の再生ということに取り組む人は近年多いけれど、その活動をしているほとんどは若い人なわけで。大人が取り組んだいい事例なんじゃないかなと思う」
「お店が忙しくなってくると、お客さんがさっと裏にまわって洗い物をしたり。そんな、お店の人とお客さんの境界が曖昧なところも素敵だよね。それもお客さんが自ら手伝いますよってすすんで手伝う。そんな風にしてもいいんだとお客さんに思わせるお店の包容力があるからかな。今自分が洗い物を手伝えば助かるだろうなと自然にそういう気持ちにさせる空気感がいいよね」
お店の人とお客さんの曖昧な線引きがあるお店。インタビューでそんな話をしている頃、灯油のキャップが開かないと、純子さんが灯油タンクを持って白石さんのところにきました。
「こういうのすごくいいなぁと思って。例えば渋谷のカフェで灯油のキャップ開けてくださいってお店の人がお客さんに頼むカフェはないから。そういう感じがすごくいい」
壱之町珈琲店の営業時間は、10時から17時。夜の時間帯は営業しないというのも白石さんにとって魅力のようです。
「前に、夜に営業しないのか聞いたことがあるんだけど、“私も夕ごはん作らんならんからなぁ”って純子さんが答えたの。その感覚がとても素敵だと思う。お店の人も自分の暮らしを大切にしているのがよくわかるよね。みんながごはんを食べる時間にお店を開けているということは、お店の人は、家族との時間を過ごせていないということでしょ?だから、お店の人の暮らしを犠牲にしてまで、僕らの便利のためにがんばってもらう必要はないと思って。今の時代、情報発信は誰もいつでもできるからこそ、お店がその日の営業時間を発信してくれたら、僕らお客さんがそれに合わせていけばいいだけの話だと思う。お店の人が無理なくやっていることがお店の価値を高める要因になっているんじゃないかな。ここは、ビジネスと暮らしのバランスがいいお店だと思う」
珈琲を飲まないときでさえ、このお店に立ち寄ることがあるくらいだという白石さん。壱之町珈琲店と白石さんは、お店とお客さんという枠では収まらないようです。
最後に、店主の森本純子さんにお話を伺いました。
「みんながそれぞれの暮らしの中で、この場に来ると少しホッとできたり、なんか居心地がいいなぁ、美味しいなぁと思ってもらえたりすると嬉しいなぁ。それぞれいろんな大変なこととかあるとおもうんやけど、ここに来るとちょっと気持ちが軽くなれるような場所であれたらいいなと思っとるなぁ」
壱之町珈琲店の始まりは、今から18年ほど前にさかのぼります。古川の町に残る美しい古い家々が少しずつ壊され、町並みが歯抜けの状態になったり。そんな場所が駐車場になってしまうことをすごく寂しいと感じたご主人の森かっちゃんと仲間たちが、この町の古民家で何かができたらいいなと、夜な夜な酒を酌み交わしながら話していたそうです。そして、ずっと空き家だった町屋に珈琲店を作ろうという話が持ち上がります。お店の話が具体化する頃、当時主婦だった純子さんに、店主として白羽の矢が当たります。
「みんなが夜な夜な話をしてた頃、私は他人事でな。みんなにお酒やお料理を出したら、自分は別室に行って寝るくらい他人事やったんや。それなのに、私がお店をやることに決まって。私は喫茶店がやりたかったわけではないんやけど…。ただ、主婦は憧れやったけれど、商売人の娘やったから、主婦だけの毎日は物足りんって思いがどっかにあったんやな。それとパンを焼くのが好きやったもんで、結局ここでパンを焼きながらお店に立つことになったんや」
今でこそ、たくさんの人が純子さんに会いにやってくるお店ですが、始めた頃の彼女の心境は今とは少し違っていたようです。
「最初は、正直嫌々で。『かっこいい服』を着せられた人形みたいな感覚といえばいいのかな。お店を褒められても、自分ではなく、『かっこいい服』だけを褒められたみたいに感じてしまって。“プロデュースしてくれた人のセンスがいいもんで。”って思っとった。だけど、やっぱりやらなきゃいけないから、なんとか続けて。5年やったくらいから、お店を褒められると嬉しく感じられるようになったんや。お店への愛着もわいてきて、ようやく自分が作ってきたものを褒められたように思えるようになってきたなぁ」
「最初は私の昔からの知り合いばかりが来ていたけれど、だんだんとお店がいいからって来てくれる人たち増えてきて。その人たちがすごく気持ちのいい人たちで。気持がすかーっと晴れていくような感じだったな。私もこのお店が好きになれて、来てくれるお客様も素敵な人たちばかりで大好きやし。それまではカウンターがあって、常連さんがいて、同じ時間に同じ人たちが集まって、という喫茶店のお店しかこの町にはなかったんだけど、それとは違う気持ちいい空間ができて、私も心地がいいんや」
ここにやってくるお客さんは、地元の人も、観光の人たちもいるそうですが、その割合もどこかこのお店らしいものでした。
「町の人も観光の人も来てくれるけれど、夏になって観光客の人たちが増えると、町の人たちが遠慮してくれたり、逆に冬になって観光の人たちが減ると、町の人たちが来てくれて、どうにかやっていけてるなぁ」
みんなが心地よいと感じる距離感については、純子さん自身はどのように思い、どのように接しているのでしょうか。
「その人その人によって違うかなぁ。この人はちょっと話したいかなと思う人には声をかけてみたり。静かに過ごしたいかなって人にはそっとしておいたり。そのカンが外れることもあるのやけどな(笑)」
そして、お店の大きなテーブルですが、実はオープン当初はとても不安だったのだそうです。
「この店を始めるときにプロデュースしてくれた方がいて。その方のアイデアで観光の人と、町の人の交流の場になるようにって大きい一枚板のテーブルになったんや。観光の人にとっては、飛騨弁が聞こえたりすると旅の醍醐味が感じられるしな。ただ、地元の人のことが私は心配で。顔だけ知ってる人が近くに座ってたら挨拶したほうがいいのかとか考えてしまって、結局居心地悪いんじゃないかなと。でもなぁ。みんな上手に使わはるんや。気分にあわせて店を選んでくれて。このお店には、ちょうどいい距離感の気分の人たちが自然とくるようになって。ほんと、ありがたいなぁ。このお店を通じて、いろんな人と知り合って、プライベートでも一緒に過ごす友だちになってな。お店をやっていなかったら、今の私ではなかったと思うなぁ。移住者の人とか、若い人とかのお話も聞かせてもらって、すごくおもしろいなって思うし、今の私の考えも、そう言った人からたくさん教えてもらっとるんやぁ」
お客さんとお店の人の曖昧な境界線。肩に力の入っていない、自然体のお店の雰囲気に惹かれて、今日もたくさんのお客さんがお店に訪れています。
壱之町珈琲店 |
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